2011年06月18日
エステは本当にの強引に勧誘するのか?
私の妹が、最近エステに通っているようです。
エステといえば私が思い浮かぶのは
「必ず勧誘される」
が真っ先に思い浮かんでいたものです。
まあ、商売なので勧誘は当然というかどんな商売でもあることだとおもうのですが、
最近は法整備の影響もあってかエステの強引な勧誘はかなり減っているみたいです。
最近は男性もエステに行く機会も増えていますが、
私の友人は、数十万円かけて髭を永久脱毛したらしいです
私も髭は毎日面倒くさいと思っていますし、
本当に文字通り永久に脱毛できるのであれば
髭剃りも、換えのシェーバーも必要ないということになります。
たしかに数十万円の価値は・・・あるのかなあ?(笑)
エステといえば私が思い浮かぶのは
「必ず勧誘される」
が真っ先に思い浮かんでいたものです。
まあ、商売なので勧誘は当然というかどんな商売でもあることだとおもうのですが、
最近は法整備の影響もあってかエステの強引な勧誘はかなり減っているみたいです。
最近は男性もエステに行く機会も増えていますが、
私の友人は、数十万円かけて髭を永久脱毛したらしいです
私も髭は毎日面倒くさいと思っていますし、
本当に文字通り永久に脱毛できるのであれば
髭剃りも、換えのシェーバーも必要ないということになります。
たしかに数十万円の価値は・・・あるのかなあ?(笑)
Posted by Lay at
16:33
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2011年06月09日
本来の姓とは?
姓(せい、本姓ともいう)は、本来の姓のことで、明治前には名字と見分けされていました。
足利尊氏も、本姓でいうときは「源尊氏(みなもとのたかうじ)」となります。普通はこんな言い方はしませんけどね。
これはどういうことかというと、「源」は本姓で「足利」や「徳川」は名字ということです。
まぎらわしいのは、「姓(かばね)」の存在です。
また、鎌倉幕府の執権であり頼朝の妻、政子の実家である北条氏の本姓は「平」で、桓武平氏(桓武天皇の子孫、平の姓を賜った)です。
例えば、室町幕府を開いた足利尊氏は、本姓は「源」であり、清和源氏(清和天皇の子孫、源の姓を賜った)なんですね。
つまり、「の」が入るときは本姓で、「の」が入らないときは名字ということです。
彼らの本当の姓はそれぞれ「源」、「平」なんです。
氏(うぢ)は、血縁集団、つまり一族のことで、同じ姓を名乗るのが普通です。
源氏は祖となる天皇が21人いて、かなり多くの氏族がいました。
そして、義助は兄の義貞が相続した新田家から独立し、新田荘内の脇屋郷を分割相続して住んだことから、脇屋を自分の名字として、脇屋義助と名のったのですね。
では足利とか徳川とか北条とか織田などはどういうことかというと、これが名字なんですね。
姓(せい)と姓(かばね)は別のもので、見分けされています。
他にも、源頼朝はもちろん源氏ですし、徳川家康も藤原氏を名乗っていましたが、その後源氏を名乗ります。武田信玄や板垣退助も源氏です。
最高位の「真人」は天皇の子孫に与えられるもので、実質、臣下の最高位は「朝臣」ということになりますが、平安朝以降はいろんな事情から多くの氏が朝臣を名乗ることになったようです。
しかし、本姓はどちらも「源」であり、源義貞、源義助が正式な本名となります。
血縁集団であった古代の「氏(うぢ)」は地名から取ったものや、朝廷の職に由来するものなどがあります。
これは、その一族の「格」のようなもので、一定のかばね以上でなければ高級官僚になれないなどの規定がありました。
ちなみに、上杉謙信は、はじめ長尾景虎という名前でしたが、この長尾氏は平氏、上杉氏は藤原氏です。
公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)などがあって、後に「八色の姓(やくさのかばね)」が制定されて、真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、 臣(おみ)、 連(むらじ)、 稲置(いなぎ)という階級ができました。
豊臣秀吉の「豊臣」も、天皇から賜りました。
天皇から賜った「姓(せい)」もあり、氏=姓(本姓)となっていたようです。
例えば、鎌倉幕府と戦った新田義貞の弟は脇屋義助といい、兄弟で名字が違うわけですが、これはどういうことかというと、新田氏の先祖が新田荘という荘園を開墾し、荘名を名字にしたわけです。
それぞれ宗家と分家があったり、土着して武士になったりして、家単位で見分けするための名字を名乗ったわけです。
有名な「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」というのは、それぞれ源氏、平氏、藤原氏、橘氏という天皇から賜った姓です。
「かばね」は、古代のヤマト帝王権で大帝王(おおきみ、古代の天皇のこと)から与えられた称号のようなものです。
他には、平清盛や平将門などの平家の一族や、織田信長も平氏を名乗っていましたし、豊臣秀吉も一時、平氏を名乗っていました。
ちなみに、源頼朝は「みなもとのよりとも」と姓と名の間に「の」をつけて読みますね。でも、足利尊氏は「あしかがたかうじ」、徳川家康は「とくがわいえやす」と、「の」は入りません。
足利尊氏も、本姓でいうときは「源尊氏(みなもとのたかうじ)」となります。普通はこんな言い方はしませんけどね。
これはどういうことかというと、「源」は本姓で「足利」や「徳川」は名字ということです。
まぎらわしいのは、「姓(かばね)」の存在です。
また、鎌倉幕府の執権であり頼朝の妻、政子の実家である北条氏の本姓は「平」で、桓武平氏(桓武天皇の子孫、平の姓を賜った)です。
例えば、室町幕府を開いた足利尊氏は、本姓は「源」であり、清和源氏(清和天皇の子孫、源の姓を賜った)なんですね。
つまり、「の」が入るときは本姓で、「の」が入らないときは名字ということです。
彼らの本当の姓はそれぞれ「源」、「平」なんです。
氏(うぢ)は、血縁集団、つまり一族のことで、同じ姓を名乗るのが普通です。
源氏は祖となる天皇が21人いて、かなり多くの氏族がいました。
そして、義助は兄の義貞が相続した新田家から独立し、新田荘内の脇屋郷を分割相続して住んだことから、脇屋を自分の名字として、脇屋義助と名のったのですね。
では足利とか徳川とか北条とか織田などはどういうことかというと、これが名字なんですね。
姓(せい)と姓(かばね)は別のもので、見分けされています。
他にも、源頼朝はもちろん源氏ですし、徳川家康も藤原氏を名乗っていましたが、その後源氏を名乗ります。武田信玄や板垣退助も源氏です。
最高位の「真人」は天皇の子孫に与えられるもので、実質、臣下の最高位は「朝臣」ということになりますが、平安朝以降はいろんな事情から多くの氏が朝臣を名乗ることになったようです。
しかし、本姓はどちらも「源」であり、源義貞、源義助が正式な本名となります。
血縁集団であった古代の「氏(うぢ)」は地名から取ったものや、朝廷の職に由来するものなどがあります。
これは、その一族の「格」のようなもので、一定のかばね以上でなければ高級官僚になれないなどの規定がありました。
ちなみに、上杉謙信は、はじめ長尾景虎という名前でしたが、この長尾氏は平氏、上杉氏は藤原氏です。
公(きみ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)などがあって、後に「八色の姓(やくさのかばね)」が制定されて、真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、 臣(おみ)、 連(むらじ)、 稲置(いなぎ)という階級ができました。
豊臣秀吉の「豊臣」も、天皇から賜りました。
天皇から賜った「姓(せい)」もあり、氏=姓(本姓)となっていたようです。
例えば、鎌倉幕府と戦った新田義貞の弟は脇屋義助といい、兄弟で名字が違うわけですが、これはどういうことかというと、新田氏の先祖が新田荘という荘園を開墾し、荘名を名字にしたわけです。
それぞれ宗家と分家があったり、土着して武士になったりして、家単位で見分けするための名字を名乗ったわけです。
有名な「源平藤橘(げんぺいとうきつ)」というのは、それぞれ源氏、平氏、藤原氏、橘氏という天皇から賜った姓です。
「かばね」は、古代のヤマト帝王権で大帝王(おおきみ、古代の天皇のこと)から与えられた称号のようなものです。
他には、平清盛や平将門などの平家の一族や、織田信長も平氏を名乗っていましたし、豊臣秀吉も一時、平氏を名乗っていました。
ちなみに、源頼朝は「みなもとのよりとも」と姓と名の間に「の」をつけて読みますね。でも、足利尊氏は「あしかがたかうじ」、徳川家康は「とくがわいえやす」と、「の」は入りません。
Posted by Lay at
16:29
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2011年06月01日
「kaiserschnitt」の和訳
お産で自然分娩ではなくお腹を切開して子供を取り出すことを「帝王切開」といいますね。
この「帝王切開」という語群の元を探ってみます。
ドイツ語で「帝王切開」のことを論旨する「kaiserschnitt」を、日本人が和訳するとき、「kaiser」を皇帝、「schnitt」を手術、と切り離して誤訳したようです。
「kaiser」はカエサルからきていて「皇帝」を表すことばなので、そこから取り違いが生まれたようです。
ラテン語で帝王切開のことを「sectio caesarea」といいます。
「caesarea」は「切り刻む」という論旨ですが、これが「caesar」(カエサル、シーザー、帝王)とまちがえて翻訳され、そのまま正式名称として今日まで伝わったのです。
正しく訳すと、「切腹手術」となり、そのまんまな感じですね。
しかし、医術用語はドイツ語起源が多く、「caesar」自肉体「分家」の論旨で、もとはやはり「切る」「分ける」というような論旨があり、「kaiser」も「切り分ける」というような論旨があります。
シーザーなど中世以前の帝王は子供の無事をその母親の命よりも優先させていたので、胎児に負担のかかる自然分娩でなく帝王切開で分娩していた、らしい…
というのは今の世人が文明度が低く野蛮な感じのする中世以前に対する、イメージ。
実際、胎内の子供をみたいといって妊婦の腹をひらいたという残虐な暴君もいましたが、普通、特別な理由なく帝王切開にしたりはしてなかったようです。
古代ローマでは、妊娠末期に妊婦が死亡した大局などに胎児を救う目的で帝王切開されることがあったようですが、カエサルの生母はカエサルが40歳を越えるころまで生きていたそうですから、カエサルが帝王切開で生まれたわけではないようです。
「帝王切開」は、古代ローマでは分娩によって死亡した母肉体から胎児を取り出すのが目的でした。
また、アフリカやヨーロッパなどでも古くから帝王切開による分娩が行われていたらしく、19世紀頃のヨーロッパではわりと一般的になっていたようです。
しかし、20世紀になって手術管理がしっかりできて手術処方が完成されるまでは、多くの妊婦は手術後に死亡していたようです。
今は帝王切開そのもので死亡する妊婦はほとんどないそうです。
記録に残る日本で最初の帝王切開は、1852年埼玉県飯能市で、飯能の医者岡部均平と秩父市の医者伊古田純道によって行われました。胎児は死亡したそうですが、母肉体は助かり88歳まで生きたそうです。
この「帝王切開」という語群の元を探ってみます。
ドイツ語で「帝王切開」のことを論旨する「kaiserschnitt」を、日本人が和訳するとき、「kaiser」を皇帝、「schnitt」を手術、と切り離して誤訳したようです。
「kaiser」はカエサルからきていて「皇帝」を表すことばなので、そこから取り違いが生まれたようです。
ラテン語で帝王切開のことを「sectio caesarea」といいます。
「caesarea」は「切り刻む」という論旨ですが、これが「caesar」(カエサル、シーザー、帝王)とまちがえて翻訳され、そのまま正式名称として今日まで伝わったのです。
正しく訳すと、「切腹手術」となり、そのまんまな感じですね。
しかし、医術用語はドイツ語起源が多く、「caesar」自肉体「分家」の論旨で、もとはやはり「切る」「分ける」というような論旨があり、「kaiser」も「切り分ける」というような論旨があります。
シーザーなど中世以前の帝王は子供の無事をその母親の命よりも優先させていたので、胎児に負担のかかる自然分娩でなく帝王切開で分娩していた、らしい…
というのは今の世人が文明度が低く野蛮な感じのする中世以前に対する、イメージ。
実際、胎内の子供をみたいといって妊婦の腹をひらいたという残虐な暴君もいましたが、普通、特別な理由なく帝王切開にしたりはしてなかったようです。
古代ローマでは、妊娠末期に妊婦が死亡した大局などに胎児を救う目的で帝王切開されることがあったようですが、カエサルの生母はカエサルが40歳を越えるころまで生きていたそうですから、カエサルが帝王切開で生まれたわけではないようです。
「帝王切開」は、古代ローマでは分娩によって死亡した母肉体から胎児を取り出すのが目的でした。
また、アフリカやヨーロッパなどでも古くから帝王切開による分娩が行われていたらしく、19世紀頃のヨーロッパではわりと一般的になっていたようです。
しかし、20世紀になって手術管理がしっかりできて手術処方が完成されるまでは、多くの妊婦は手術後に死亡していたようです。
今は帝王切開そのもので死亡する妊婦はほとんどないそうです。
記録に残る日本で最初の帝王切開は、1852年埼玉県飯能市で、飯能の医者岡部均平と秩父市の医者伊古田純道によって行われました。胎児は死亡したそうですが、母肉体は助かり88歳まで生きたそうです。
Posted by Lay at
08:47
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